山の実りと人の暮らし

近年、クマの人里出没による人身被害、農作物の被害が目立つようになりました。各地で報道も相次ぎ、山間地域で暮らす人々にとっては、身近な安全上の問題として深刻さを増しています。
この問題、特に日本においては、単に「クマの数が増えた」だけでは説明できない複数の要因が重なっています。

1970年代以降、世界的な鳥獣保護の動向を背景に、法令規制によって狩猟の機会が減ったことでクマの個体数が回復した一方、田舎の過疎化と高齢化が着実に進行し、特に山沿いの集落では人の営みが次第に縮小しました。手入れの途絶えた畑や果樹園、放置された農地が広がり、かつて人の生活があった場所が静かに自然な姿へと戻りつつあります。そうした土地に野生動物が入り込むのは、ある意味で必然とも言えるでしょう。

さらに近年は、気候変動の影響で山の実りそのものにも異変が起きています。夏から秋にかけての高温や降雨パターンの変化により、ブナやナラなどの木の実が不作となる年が増えています。果樹もまた高温障害を受けやすくなり、かつて山で豊富に実っていた食料が減少しています。
冬季が著しく温暖になったことにより、冬眠期間が短くなったり、そもそも冬眠自体をしなくなった熊も居るそうです。これにより、お腹を空かせたクマが人里の柿や栗、農作物へと餌を求めてはるばる下りてくるケースが増えているのです。

山村地域の生活基盤が弱まっていることも、こうした状況を助長しています。
実りの管理が難しくなり、空き家や耕作放棄地が増えたことで人獣それぞれの生活圏の緩衝地帯が無くなり、互いに近づきやすい環境が整ってしまいました。
行政や地域の管理体制も人手や専門家が慢性的に不足していて十分とはいえず、人の匂いに慣れきってしまったクマが繰り返し人里に現れる例も少なくありません。

さて、このような状況は、単なる「自然の変調」と片づけられるものではありません。人間社会の複雑な構造変化や地域コミュニティの衰退、そして気候変動による影響が複雑に絡み合った、地球環境と生態系全体の変化による課題です。
少子高齢化や人口減少が確実に進むなかで、先ずは山間の温泉地や観光地などで、これからの安全確保や経営の在り方が順次問われていくでしょう。

仏教の「縁起」の教えに照らせば、クマの出没は偶然の出来事ではなく、人の暮らし方と自然環境の移り変わりが因として結びついた結果です。恐怖や排除の感情だけで終わらせず、私たちの暮らしそのものを見直す契機とすることが大切ではないでしょうか。
山に還るものがあれば、人に還るものもあります。いのちが互いに影響し合う世界の中で、これから私たちはどのように自然との関わりを結び直していくのか、静かな焦燥感をもって考えさせられる今日この頃でございます。

忌中と喪中 ~その違いと意味をたずねて~

忌中と喪中は、いずれも普段の行動を慎み、故人を悼む期間であるという点では同義です。ただし、わが国には神仏習合の歴史があるため、禁忌の期間はおろか、その使用範囲も明確ではありません。
そこで本稿では、ある程度わかりやすい基準を探り出しながら、両者の発祥や違いにも目を向けてみようと思います。


【忌中(きちゅう)】

神道においては、ご不幸があってから五十日間が忌中にあたるとされ、この期間は生活上のあらゆる行動を慎みます。一方で仏式では大練忌を迎えるまでの四十九日間がこれに相当するようです。
「死を忌む」という慣習は、神道に由来します。忌中の考え方は、この神道の思想に根ざしています。
もっとも、仏教には本来「死は不吉なもの」といったような考え方はありません。したがって、仏式における忌中という表現は、世俗的な都合から生まれたものと考えられます。
神道では、忌中の間は神社への参拝を控えるようにとされています。その理由については、後段で詳しく述べます。

【喪中(もちゅう)】

喪中とは、近親者の死去に際し、一定期間「喪に服する」ことを指します。ご不幸の後、半年から一年程度が一般的な服喪期間であり、こちらは儒教に由来する考え方です(中国発祥)。
今日では一周忌(一周忌月末までの13ヶ月間)までを喪中とするのが通例ですが、故人との親等によって期間に差が設けられることもあります。
「喪に服す」とは、具体的にはどのような行為を指すのでしょうか。
端的に言えば、それは故人を偲びながら、自己の行い――とりわけ過度な贅沢や殺生――を慎み、ご不幸という非常事態から少しずつ普段の生活へと戻っていくための、いわば“心のリハビリ期間”です。


これらはかつての律令制で体系的に明文化され、徳川五代将軍綱吉の政策「服忌令(ぶっきりょう/1684年)」により細かく制度化され、我が国では何百年もの長きにわたり「社会の決まり」として設定されていました。違反者には処罰もあったようです。
しかし、明治期から他の新たな法律が整備され始めると折り合いがつかなくなり、戦後には完全廃止されました。その後は慣習として民間に残り、現代にまで伝えられています。
忌引き休暇やお盆休みなどを世間一般で当然の仕組みとして今扱えるのは、過去このような制度が常態的に運用されていたからに他ならないでしょう。


【ハレ・ケ・ケガレの観点から】

こうした忌中・喪中の背景には、日本人が古くから大切にしてきた時間感覚や宗教観があります。その象徴が「ハレ」「ケ」「ケガレ」という三つの概念です。
「ハレ」は祭礼や祝事など、気運の高まる非日常を、「ケ」は穏やかで安定した日常を指します。そして最後の「ケガレ」は、神道において“死は不浄”とし、人の死を”歓迎されない非日常”として扱う考え方に基づく言葉です。
このため、忌中または喪中には神社の鳥居をくぐらず、すなわち神域に立ち入らないという風習が生まれました。厳密には、参拝を避けるべきなのは忌中の期間だけであり、喪中に入ったあとは徐々に日常生活へ戻すことが望ましいとされます。
もっとも、「死=ケガレ」とする考え方には異論もあります。たとえば仏教文化の中では、死は葬儀や法要を含めてむしろ「ハレ」とみなす見方も存在し、宗教や地域によってその解釈は一貫していません。ケガレに対して否定的な印象を抱くのは、その語感がどうしても「汚れ」と結びつくためでしょう。しかし本来の「ケガレ」は「穢れ」あるいは「気枯れ」と表記され、日常の活力(気)が何らかの出来事によって失われた状態を意味します。
そんなケガレの状態で神域に近づいてはならないのは、そこは神聖で特別な場所であるから、というのが理由だそうですが、それについて少し私見を挟みながら掘り下げます。

古来より神道における祭神とは、常に持て囃すべき存在であり、侍ることを努々忘れてはならず、畏怖の念を向ける対象とされてきました。
神に仕えるには、身も心も清らかに、供物のように捧げる覚悟で臨まなければなりません。私事を差し置いてでも、神に隷属する覚悟が求められるのです。
たとえば、神事や祭典で山海の美味がふんだんに献供されるのも、神輿渡御にて御神体が村々を巡る際、各家が必ず門前で出迎え、深々と伏して帰りを見送るのも、すべてはその一環です。
神と逢うにはそれ相応の心構えと身支度が必要で、それはつまり過分に「疲れる」ことでもあります。
だからこそ、身内に不幸があって草臥れている=気が枯れている状態では、神を十分にもてなすことができず、そんな状態で神域に近づくことは危険であるとされたのです。
なお、イメージ的にはハレの事柄と思われがちな「出産」もまた、本来はケガレのひとつとされ、産後すぐの神社参拝は避けるべきとされます。
女性が生命の危機と隣り合わせで臨むこの大仕事の後は、当然に精気が削がれており=すなわち気が枯れており、そのような状態では神域に立ち入るべからず、とされたのです。
その他、神道に関連する様々な行事において「女人禁制」が敷かれることが多いのも、こうした女性ならではの諸事情が背景にあると言われています。


我々が生命活動を続けるうえでは、避けがたい不運な出来事に間々見舞われます。辛く苦しいそうした「ケガレ(活力の喪失)」に直面したとき、どのようにして日常(ケ)を取り戻すか。
その答えとして、先人たちはさまざまな特別な祭典や行事(ハレ)を生み出してきたわけですが、同時に(ケガレ)から(ケ)の状態に無理なく繋ぐ役割として、忌中や喪中が必要とされてきたという事実もあるようです。
特集記事の第七弾「供養」の後段でも日常と非日常の対比に触れましたが、これらの思想は、人々が平和な生活を維持・再構築するために、自然と取り入れてきた知恵であると考えられています。