普伝院の歴史

普伝院は、安間村(当時)の片隅に建つ、ささやかな小庵から始まります。
それは室町時代まで、街道を往来する旅人や修行僧の為の宿泊所に近い機能を持った、小さな建屋の供養堂であったそうです。
稲荷山龍泉寺(現・浜松市南区飯田町)9代目住職、德翁秀養大和尚がご退董(隠居)されるにあたり、その場所としてこの小庵を利用し、慶長元年(西暦1596年)、今の地に改めて、曹洞宗のお寺としてご開山されました。
これが「普伝院の始まりである」と伝えられております。

ちなみに慶長年間と言えば安土桃山の中頃、織田信長は既に没し豊臣秀吉による全国統一が果たされた直後にあたります。
国盗りの乱世を潜り抜けた武将や民衆が、新しい暮らしと文化を創り始めた時代です。

普伝院は当初より遠州浜松のこの地に建っておりますが、元々の境内地は現在のものとは全く違った形状をしていたようで、数百年の時間の中でかなりの変化を経て今に至ります。
例えば南の参道入口は本来、旧東海道沿いにありました。
稲荷大明神の鳥居につながる脇参道は、現在の南側墓所辺りで大きく湾曲して、姫街道沿いに繋がっていた時期もあります。
北側の国道1号線も山門正面の県道312号線も開通していない時代、農地改革や廃仏の憂き目に遭う前は、一説によると最大で9町歩(27,000坪・約8.93ha)もの寺領を所有していたようです。

初期の普伝院を代表するものとして「木彫りの千体佛」が挙げられます。
千体佛は、前述の小庵にて祀られていたものを普伝院開創と同時に引き継いだ、と考えられています。(前身である小庵が撤去され当地に普伝院が建立し、千体堂は後から現境内地へ遷ったはずだが、時期や場所の記録文献が乏しく明確な情報は得られない)
これは、元亀3年の三方ヶ原の戦いに至る、天竜川沿岸での武田軍と徳川軍の衝突にて討ち死んだ両軍兵の霊魂を弔う為に、 当時の仏師により、村人の浄財を寄せて彫られたもの、と伝わっております。

そして德翁秀養大和尚は、京都伏見稲荷大社より龍泉寺に勧請(お迎え)し祀っていた稲荷神を、普伝院開創とともに再勧請しました。
これにより誕生した安間稲荷大明神は、以来、普伝院と不可分一体な鎮守大神として山内に合祭されております。
特に東海道のかつての宿場町「中ノ町」では、五穀豊穣と商売繁盛の願掛け稲荷として有名であり、門前の町村においては、生業繁栄を祈る民の日常に不可欠な神仏となりました。
またこれらのことが、古来より当山が地元の方々に「安間のお稲荷さん」や「安間稲荷」と、愛称のようなニュアンスで呼ばれている由縁でもあるわけです。
その他には、能や歌舞伎をされる芸能の方々にも厚い信仰をいただいていた時代もあったようで、演舞や金銭の授受が行われたであろう当時の記録もございます。
東海道を通って全国を巡業する道すがら、ここ安間稲荷に寄って道中の無事と芸事の隆昌を願うご祈祷を受け、返礼に奉納の舞を上げた一座もあったことでしょう。

御開山大和尚から数えて住職は当代で26世、令和の現在まで凡そ430年の寺史を刻んでいます。
幕藩体制の変遷、維新後の廃仏毀釈、大東亜戦争の戦火、数多の動乱や苦難を何度も乗越えて、普伝院は今日ここに存在しているのです。