特集第4弾:お盆とお施餓鬼

●前書き
「特集」という枠をホームページ内に新設したかった理由のひとつは、この記事の作成です。
歴史的事情が複雑で、様々な風俗的慣習が渾然一体に絡み合うこのような行事について、日記程度でその解説を済ませるには、情報があまりにも膨大過ぎました。
なので、このように「特別な枠」を設けることで作文のハードルを下げて、それらの問題を解消しようと考えました。
研究の方向性としては「遠州地方におけるお盆やお施餓鬼の歴史と、その風俗的特異性についての考察」となっております。
以前から作りためていた解説文や先代住職達の残していった覚書、これらを網羅的に再編集し、その他新しい資料も織り交ぜながらアップグレードして作成しています。
なお、この特集記事は当山歴代僧侶独自の見解が大いに加味されたものであることをご了承ください。


●本編
お盆とお施餓鬼、我々には実に耳馴染みのある単語ですが、これらはどういう意味を持つ行事で、何が違うのか、ご存じでしょうか。
おそらく皆様のほとんどは明確な区別をせず、これら2つの仏式文化を無意識に受け入れておられるものと思います。
結論から言ってしまえば通常、明確に区別して捉える必要はありません。
ですが正直なところ、説明不足による少々の誤解もありまして、そこには十分に研究の余地や補填すべき部分が残っていると考えます。
そこでこの特集では、宗教的側面だけに留まらず、昔話や伝説も交えながら、敢えて掘り下げた解説を進めてまいります。

それでは先ず、日本に仏教がもたらされ現代に至るまでの経緯、その辺りから確認をしてみましょう。

紀元前5世紀ごろのネパール南部(現インド)にて、時の王族の御子息が発心しご出家なされ、長年の修行の末に悟りを開きます。
皆様ご存知の「お釈迦様」による教え、仏教の始まりです。
お釈迦様の説いた教義や言説は程なくして、数多のお弟子様からお弟子様へと、連綿に受け継がれて行きます。
お釈迦様がお亡くなりになってもなお、仏教は自国インドだけではなくタイやベトナムなど、東南アジア各国へ広範な伝播を見せ、その中で西暦1世紀の半ばには、当時の中国にも仏教が伝わることになります。
中国への仏教伝来エピソードは数あるようですが、かの「西遊記」もその物語の一つでしょう。
しかし中国へ伝わった仏教は、当時の中国人民(凡そ後漢~唐の時代)には、しばらくは受け入れ難かったようです。その原因のひとつには、インド既存の思想「輪廻転生」がありました。
それは「生まれ来る者にはいずれ必ず死が訪れ、死してのちその魂は時を経て必ず次の肉体に宿る…車輪が回るように、生まれ出でては死に絶えることを何度も繰り返す…」というものです。
中国では既に儒教や道教が、宗教という枠を越えて民衆の生き方や常識に定着しており、その中の「先祖供養 = 代々の祖霊を祀る」という考え方が、仏教に伴って伝わってきたこの、言わば「精魂のリサイクル」という概念にそぐわなかったのです。
中国既存の宗教観と相容れなければ、その歴史はここで立ち消えとなったことでしょう。ですが仏教は、次第にこの「先祖供養」という考え方を内包するようになり、それからの数百年で中国全土にまで拡がり、6世紀中頃(飛鳥時代初期・仏教公伝538年説)には、いよいよ日本にも伝わることになります。
しかし中国と同じように、日本にも既存の伝統宗教「神道(古神道)」がありました。
日本独自の信仰である神道と、他国から持ち込まれた宗教である仏教、この2つの教えがどの様な出会いをしたのでしょうか。
実は日本に於いても、これらの教義は上手く融合を成して行きます。
鍵となる人物は、当時仏教に帰依していた推古天皇と、その傍仕えをしていた聖徳太子でした。
かつて太子が「和を以て貴しと成す」と仰っていたように、出所も中身も全く違う宗教である仏教と神道は、本地垂迹(日本の八百万の神々は、様々な仏・菩薩・天部などが化身となって日本の地に現れた権現である)という考えの下に、併存を認められるようになります。
こうして見事に、神道との隔たりなき教えとして、仏教が日本の世に広まるようになるのです。

その後、奈良、平安、鎌倉時代と時は流れ、各年代にそれぞれの切り口をもって解釈された「日本人による日本特有の仏教教理」がいくつか枝分かれして説かれて行きます。
真言、天台、日蓮、浄土、浄土真宗等…極めて有名な各宗派がそれに当たります。現代で言うところの「既成仏教」の誕生です。

時を超え明治初期、祭政一致を目論む政府は神道を国家宗教とするべく神仏分離令を公布し、仏教を神道から内外ともに分断させる国策をとります。
これにより世間には廃仏毀釈の動きが出てくるようになり、現場では貴重な仏像や仏具の破壊、社殿と仏閣の分離、経典や僧侶の排斥などが行われ、そんな中で一定規模の寺院だけは辛くも生き残りますが、小さな寺は見るも無惨、ことごとく廃絶に追い込まれてしまいます。
維新政府の政策に端を発したこの苛烈な状況は、実は世間の曲解に依るところが大きかったのですが、王政復古で堰を切ったように始まったこの情勢は、残念ながら止まることはありませんでした。
挙句、寺院と切り離された神社は、伊勢神宮を頂点とした神道上の純粋な礼拝社殿となり、官社や諸社といった「社格」で区別されるとともに、別箇独立の「国管轄」宗教施設へと、その様相を変えて行きます。
ちなみに江戸時代までの僧侶は、当時の寺請制度等の各種法度によって幕府から住民管理の職務を任されており、公職に準じた身分を得ていましたが、この時を境に、今度は神職が僧侶に代わって、今で言う公務員のような立場になったわけです。

さらに時を経て大東亜戦争後、日本はGHQの指示により国政の仕組みが色々と改変を施されましたが、それと時同じくして神道も民間に返されて、現在では既成仏教のみならず新興の宗教、特に戦後に勃興した新宗教さえも、その存在を尊重されるようになりました。
日本国憲法にて「信教・思想の自由」が但し書き無く明確に条文化し、旧憲法上の国策的制限が撤廃されたことで、個人の自由な布教や信仰を法的に保証された、という事実もあります。

このように我が国における仏教は、伝わった国々に於いて数々の変化を重ねながら、現在あるような姿へと至っています。
発祥元のインドへその原点を辿ることはできても、完全なコピーのように教義や行事の一つ一つを照合させることは、事実上不可能と言っても過言ではないのです。
掻い摘んで言うと、日本に於いての仏教は「原始仏教+中国の儒教と道教+日本の古神道+…」のように、多種多様な宗教が混ざり合った結果の存在なのでしょう。そしてここで末尾を「…」にして終わらせなかったことには、意味があります。
都度の結論に拘ることなく、今もなお仏教は、世相に合わせた変化の過程であると思うのです。
前述のように日本人は古来「和の精神」で生きておりますから、
宗教という世界に於いてそれは「一神教」を生まず、むしろ「多神教」に繋がるのでしょう。「米一粒には7人の神様が宿る」とも言われるように、日本人は良い意味で固執しない寛容な民族なのです。

各地の風俗や文化の背景に深々と混ざり込みながら仏教の根は広がり、日本は、多種の神仏が混在する国として成り立っていきました。

長い前置きになりましたが、これらを前提にして主題へ話を進めます。
お盆とお施餓鬼、これらは古くから日本人の生活に溶け込み、いわゆる日常的慣習の一環としても実に関わりの深い年中行事です。
お盆は目連尊者、お施餓鬼は阿難尊者、どちらもお釈迦様のお弟子様にまつわるエピソードから始まっています。

〜 お盆 〜
お盆の正式名称は盂蘭盆(うらぼん)であり、法会も正しくは盂蘭盆会(うらぼんえ)と申します。
目連尊者の実母が餓鬼道に堕ち、それを救いたいのだがどうしたらいいかお釈迦様に尋ねたら…という話が起源であり、古代インドの公用語サンスクリット語ではこれをウランバナ(ullambana)と言いました。
それを音訳した言葉に漢字がついて「盂蘭盆」と転化し、ここから「ぼん」と略され、且つ敬称の「お」が付いて「お盆」という表現になったようです。
7月盆と8月盆で裏だの表だの…といった話もよく聞きますが、これは盂蘭盆(ウラぼん)という名称そのものと、お盆が2つの時期に分けられていることが原因だと考えられ、事実として裏も表もありません。

他方、日本では暦が変わっています。太陰太陽暦から太陽暦へと、旧暦から今の暦(グレゴリオ暦)に改変したのです。
これは明治初期に日本政府の政治的都合で行われたことで、さほど昔の話ではありません。
例えば旧暦で1月に相当する期間は、新暦上では2月過ぎになるので、そこにはおよそひと月半ほどのズレが出ます。
日付が変われば行事の季節感がだいぶ変わるわけで、新暦を採用した後の日本では、採用した暦通りに年中行事を行うことに問題のない人と、それではどうしても問題が残る人に分かれました。
大まかに言えば、前者は比較的新しい生活拠点と仕事を持った「町場の住民」であり、後者は昔ながらの家業を引き継いで生活する「田舎の住民」です。
よってお盆は本来(旧暦では)7月で共通のものだったのですが、新制度に倣って足並みを揃えると農繁期のような忙しい時期にちょうど被り大変になると判断した人(特に後者)は、暦優先を避けて旧来通り、季節優先にて月遅れ同期間の8月盆を取り入れていきました。
要は改暦による不都合に応じて銘々が選択をした結果、自然と
お盆期間がふた月に分かれて各所に根付いていったのです。(正確には沖縄地方に残る伝統的な旧盆もあります)
新暦変更の影響を受けたお盆行事は、地域ごとの新たな慣習として徐々に浸透し、いつしか今の形に落ち着くようになります。
(ちなみにタイ・ベトナム・中国等では、月遅れの旧正月など、未だ旧暦をもとにした日常文化が残っています)

では、なぜお盆はもともと7月の設定で、なぜ7月の15日をお盆の当たり日のように扱ってきたのか。その理由は以下に選別して2つ取り上げます。
一つ目は仏教伝来の途中で交わった、中国の教義「道教」にある三元という考え方の、中元節による影響です。
それによると、旧暦7月15日が1年の真ん中(上元・中元・下元の中元)の日に当たり、中国では仏教伝来以前から、祖霊崇敬に絶好の日として昔から扱われていたそうです。
二つ目は目連尊者伝説の内容そのものです。
目連尊者がお釈迦様に母親の相談を持ちかけた時は、修行僧の雨安居いわゆる夏の禁足修行が満了を迎えるころ(7月15日)で、お釈迦様は、厳しい日々を潜り抜けたそれらの僧侶たちを通した供養をお勧めになり、問題解決の糸口を示されました。
これらの話が、主な根拠とされます。

御霊を送迎する行事である「迎え火・送り火」について、1日、7日、12日、13日など、迎え火の初日がどこに設定されるかは地域の慣習によるところが大きいので、お盆の日程は自ずと差が生じます。(月初めから月末まで通して「お盆」とする地域もある)
一方、送り火は調べによると15日夕刻から16日未明または16日の夕刻、いずれにしても暗い時間帯であり、日本各地では凡そどちらかを採用しているようです。
迎え火と送り火を併せて1度で済ませてしまうような地域もありますが、これは戦時中の空襲を避けるために行われた措置の名残と考えられます。それはいわゆる「灯火管制」という国の施策であり、この時は住居や職場の照明器具はもちろんのこと、わずかな灯明までも使用範囲や時間の制限をかけられていました。
この期間に其処彼処で焚かれる火が空爆の標的にならないよう、なるべく小規模にまとめて行うようにと考えられた方法なのですが、その簡易的な慣習だけが一人歩きして、未だ現代に残っているものと考えられます。
全国各地、それも田舎であればあるほど異色な様子がうかがえ、一例としては、墓所から自宅まで誘導灯のように等間隔で焚火をするものや、玄関先に108本の松明(百八炬)を焚く迎え火などがあります。
因みに京都五山の送り火(いわゆる大文字焼き)は毎年8月16日の夜に行われています。

〜 お施餓鬼 〜
この行事は阿難尊者伝説、自身に降りかかる餓鬼という悪いものから救われるためにはどうしたらいいかお釈迦様に尋ねたら…という話が起源となります。ちなみにこれは先のお盆のエピソードと違い、特定の期日に限定した話ではありません。
日本国内の僧堂(大寺院)は昔から、年中行事や日々のお勤めにお施餓鬼を挟み入れ、日常的な供養の一環として扱ってきました。
例えば僧侶の食事には、いただいたもの全てを享受することはせず、一部を取り分けて自然に還す「生飯・さば」という作法があります。
そもそも「施す」という考え方と行動は、そのときだけ限定して行えば良いというものではなくて、むしろ、いつでも当たり前に持ち合わせているべき心構えなのです。
難しく言えばこれを「布施行」と申しますが、仏教の基本理念にはこの「分け隔てなく、あまねく一切に施し、全ての者が同じ時を生きる仲間として自然の恵みを共有する」という教えがあり、常なる思想として推奨されるのです。

お施餓鬼ならではの供物、どこのお家でも同じように野菜や果物を中心に用意しますが、これはどうしてでしょうか。
人々が毎日の食い扶持をそれぞれの責任で確保していた時代、つまり今のような「会社組織で働く勤め人」が主な働き方ではない、第一次産業(農業・漁業・畜産業など)による生産と消費活動が大衆生活の中心だった頃は、自分が手掛けたものが市場で売れて自分の生活を直接支えるので、獲得物が多ければ豊かになって少なければ飢えます。
即ち、その年の取れ高が低ければ生計は傾いて家族は困窮しますので、どうしても毎年それなりの結果を望むことになりますね。
しかしどれも自然環境を相手取った生業ですから、いつでも思うような成果をいただけるという保証はどこにもありません。
そうなれば最後は目に見えない力、神仏に頼る他なかったでしょう。
お供えするのと同時に、今年の作物の出来を見てもらう為に仏前に捧げて、一家の平穏無事を祈るのです。
夏野菜の収穫を間近に控える時期に行われる「施し」の仏式行事に、茄子や胡瓜が供物として登場する様子は、昔の日本人の生活を想像すれば当然のことだったのではないかと思います。

このようにお盆とお施餓鬼はそれぞれ別々の伝説が元となっているのですが、書き出しにも触れたように、なぜこれらは区別なく同一視されてしまうのでしょうか。
お釈迦様は阿難尊者へ「一切の餓鬼に供物を施して救いの供養をせよ」と、目連尊者には「母への施しをなす供養を手厚くして非常な苦しみから救われよ」と申されました。
そう、それはこれら2つの伝説がいずれも「私から他への施し」というところで、意図の要点が合致しているからです。
区別するよりはむしろ一緒に扱ったほうが、「施し」という行為に対して一般的に理解を得られやすく説明もしやすかったから、とも考えられます。
目連尊者伝説は元来、施餓鬼の心を内包し、阿難尊者伝説もまた、盂蘭盆の話と同じように、人がより良く生きるため、悪い因縁から離れるための道標を教えてくれる大事な教義を持つ、それぞれが互いに呼応した行事と言えます。
そんな各伝説を基としたお盆とお施餓鬼ですから、違いがわからないのは最早仕方のないことなのかもしれません。
ただ、行事としてのこれらは昨今、併せて梅雨時に行われることが多いため、逆に「お施餓鬼はこの時期以外にはしないもの」という誤解を生んでしまっているのが、残念なところであります。

〜 七夕伝説と精霊棚 〜
7月7日は五節句の4番目「七夕」であり、笹竹の節句や星祭りとも呼称され、その発祥地は紀元前の中国にまで遡ります。
他方、我が国の五節句行事はいずれも、海を渡って伝来した中国の年節行事が日本の古神道上の節句文化と融合し、現在の様子に落ち着いたものですので、七夕とて例に洩れず、国を跨いで受け継いだ特徴を端々に色濃く残しながら、馴染みある我が国独自のスタイルになって継承されています。
七夕の文化が始まる以前からあった日本古来の神事「棚機」(たなばた・身を清めた棚機津女が布を織り、神に捧げて無病息災を祈る神事)に、平安初期のころ中国から伝来した「乞巧奠」(きこうでん・裁縫技芸の上達を祈り、織物や供物を神に捧げる儀式)が結びつき、いつしかお盆の一環行事へと為り変わっていったようです。
また、この日は古くから、お盆支度のための墓洗い日(掃苔の日)とされており、それと併せて精霊棚の支度も整える時期、その「棚」とはお盆飾りの精霊棚であり、「幡」はもともと五如来幡(五色の短冊)を表していた、とも言われております。
すなわち7月7日は各所清掃(お清め)をし、御霊をお迎えする棚を設けて供物や花でお飾りをし、お盆のためのあらゆる支度を万事整える節目の日なのです。
さらに、支度を済ませた7日の夕刻に最初の迎え火を焚くことから、7月7日それ自体を七夕と書いて”タナバタ”と読むようになった、という言い伝えがあるのです。
精霊棚は本来屋外に組むものであり、四方に青竹を立てて縄で繋いで結界を張り、その中に設えた棚に華燭や供物を捧げ、お盆用の祭壇として特別に用意するのですが、このような本式準備は昨今あまり見かけなくなりました。
近年はせいぜい既設の仏壇をそのまま使うか、仏間に組み木の壇を増設して祀るというような工法でしょう。
ただこの棚は、神事用の祭壇(地鎮祭等で見られる段組み)に全体像が酷似していることがわかり、組み入れている道具こそ仏事用ですが、全体の見た目はほぼ同じです。
もともと神道にも祖霊を祀り迎える行事として御霊祭りはあるわけでして、ならば、融合した歴史を持つ仏教と神道の間では、これついて元々隔たりは無かったはずであり、互いに影響を与え合い、双方が年中行事で同じように並行で扱ってきたと考えられます。

〜 遠州地方の初盆祭壇 〜
日本国内のお盆供養の仕方は様々ですが、中でも特別に遠州のものが派手と言われた理由は、やはり祭壇の見た目がとりわけ豪奢であるからでしょう。ここからはさらに「棚」について深掘りしてまいります。
精霊棚は日本では昔から御霊をお迎えする為の特別な祭壇でしたが、実はこれこそが「初盆祭壇」の起源そのものではないかと思います。
遠州のお盆は派手、初盆は特に派手、飾りも豪華…というわけではなく、他所が本来の盂蘭盆会の祀り方を年々略してしまったところを、敢えてこの地域は昔ながらのやり方を踏襲し、それを現代に於いても継承して、懇ろに祀っているのではないかと推察いたします。
初盆祭壇の作りをよくご覧になっていただければわかりますが、正面に幡を掛ければあたかも彼の精霊棚を取り囲む結界(取り囲む注連縄)の様になります。
そうは言ってもひときわ派手と揶揄されがちな、あの祭壇の「見た目」ですが、お飾りの豪華さそのものにはまた別のエピソードが眠っていると考えられるのです。
先んじて申し上げれば遠州の初盆祭壇とは、古来伝わる盂蘭盆会祭祀法を忠実に受け継いだ、極めて丁寧なお飾りの仕方である、ということになりますが、それはなぜでしょうか。遠州にはそこに繋がる大事な史実がもうひとつあります。
1572年(元亀3年)、武田信玄が率いる軍と織田信長の側に属する徳川軍が、遠州の三方原台地で戦います。家康は、信長討伐のために三河へ侵攻する途中の武田軍と、ここで一戦交えたのです。これを三方ヶ原の戦いと言います。
最強の武将と謳われるほどの恐ろしい兵力を誇っていた武田信玄に対して、家康が果敢に立ち向かった理由は諸説あるようですが、結果的には家康にとって生涯唯一の負け戦として有名な合戦となってしまいました。
途中で白旗を挙げて浜松城に逃げ帰った家康は、武田軍にさらに追い詰められることになります。
そして武田軍はこの後、家康のある謀略により一旦軍を退くことになるのですが、出直しを図るため野営した犀ヶ崖という場所に於いて、逆に家康から奇襲を受けてしまう、という事件に発展します。この一連の出来事を地元では「犀ヶ崖の戦い」として言い伝えています。
家康による奇襲とはどのようなものだったのか。一度は武田軍を退かせたとは言え、状況的に逃げ場なく追い込まれた家康は、犀ヶ崖の端から端を渡すように布の橋を架けさせて、夜の暗がりの中あたかもそこを通れるかのように見せかけ、土地勘の無い武田の兵団を騙して、騎馬隊を大勢崖下に滑落させようと謀ったのです。
れこそが現在の周辺地名「布橋」の由来でもあるわけですが、この後、地域一帯には長く原因不明の疫病や農作物の不作による飢饉が続きます。
民衆の間で、この災いはかつての犀ヶ崖で不遇の死を遂げた武者たちの怨霊が引き起こしているのではないか、との噂が立ち始めます。後世ではこれを「犀ヶ崖のたたり」と呼びました。ところが…
一向に治まらず広がる災禍に困り果てた家康は、三河から了傳という和尚を招き、慰霊供養や鎮魂祈祷を依頼しました。すると、それまでの厄災病苦がうそのように治まってしまったのです。
それ以降の家康は、このような祭事を特にお盆の時期には丁寧に行うようになり、その効果を肌身で知った民衆も、それに倣って祀るようになりました。ここで生まれた独特な祭礼方法が、遠州大念仏です。
笛や太鼓の音色とともに村中を巡る厳かな音楽供養、これは合戦の戦没者を手厚く弔うための行事から派生し、世間一般に浸透した姿なのです。
大勢が隊列を組んであちこち供養に向かうその様子は、今では盆義理参りの慣習に結びついていると言われています。
もとより民衆の間にあった念仏信仰に、この事件が与えた影響は大きく、後世には遠州一円に念仏団が結成され、郷土芸能として大きく発展いたしました。
これら犀ヶ崖にまつわる話は、御伽噺の域を出ないような信憑性が低い部分も多々あるのですが、当時歴史的な合戦があったこと自体は事実であり、遠州独特のお盆慣習の起源がここにあるのも事実です。
従ってお盆の祭壇である精霊棚も、特別な慰霊祭に必要な準備として、相応に豪華な設えへと変わっていったことでしょう。
こうして現代の物の前身である「盂蘭盆精霊棚」が作られるようになり、時が過ぎてもそれは初盆供養の独特なかたちとして受け継がれているのです。

以上のように、現代に永く伝わるお施餓鬼やお盆の行事、それらは往々にして歴史の遷り変わりに少なからず影響されているということ、遠州に見られるお盆の異質さも同じく、その背景では様々な史実の余波を受けているということが、少しお分かりになったのではないでしょうか。
伝承の過程で邂逅した他宗教との関わり合い、折々に絡む民族文化や社会的事情、お釈迦様の居た時代から幾星霜、時間の経過とともに何が変化し何が残されてきたのか、このような研究を通して、それらの足跡を垣間見ることができます。
宗教という大きな概念の中で何か一つの行事を理解しようとするならば、先ずはその発祥から一つ一つ紐解いていかなければ本質は見えない、常々そのように思っております。


●後書きに代えて
本編をもとに、お盆(お施餓鬼)の要点を列記いたします。
普伝院並びに末山寺院の檀徒様に向けた資料となりますことをご了承ください。
これは2021年7月の日記にて既出の情報ですが、内容を一新して再掲するものです。

◎お盆とは?
正式名称で「盂蘭盆(うらぼん)」と言います。
地方や町村ごとに開催時期がバラバラで、ざっくり7月盆と8月盆で分かれます。
これを月別で裏とか表とか言う話をよく聞きますが、それは誤用です。
日本では、古くから神道の「御霊祭り」として存在していた慰霊祭が、外来の仏教行事と融合して今の状況に落ち着いたようです。
ただし場所によって内容の差が顕著であり、様々な顔を持つ行事です。

お施餓鬼とは?
上記のお盆とよく混同されがちですが、発祥のエピソードは別々です。
そもそもお施餓鬼(施すこと)は、いつ何時でも行って良いものであり、お盆の時期に限定される行事ではありません。
ですが趣旨が大筋で似通っているため、今ではお盆と同時開催が通例となっております。
沢山の施しをもって貪りの心を諫めながら、新亡の御霊や祖霊を迎えるための「身心の準備」をいたしましょう。

◎松焚きはどのようにしたらいいの?
松焚きは「迎え火」と「送り火」に分けて焚いてください。
焚き始める日や回数など、作法やしきたりは地域によって違うので一概には言えないところですが、以下(7月盆としての説明)を基本的な知識として押さえてください。
7/7(墓洗いの日)をお盆準備のスタートとし、祭壇の準備やご自宅の清掃なども始め、この日から12日までの各日夕刻、家の門先で迎え火を焚きます。
13〜15日の間は仏様を迎えている期間であり迎え火は焚きませんが、代わりに祭壇や仏壇(精霊棚)の灯明を灯します。
お盆を終え、祭壇等すべてのお飾りを片付けた日(例として16日)の夕刻にて送り火を焚いてください。これにて仏様をお見送りいたします。(消火用水を忘れずにご準備ください)

◎牛や馬などのお飾りや供物はどう始末したらいいの?
要するにお盆明けに「どう処分するか」ということですが、お庭や畑をお持ちの方は樹木等のそばに埋めてください。この時、食べ物など他のお供えもいっしょに埋めていただいて構いません。
お膳はその都度、傷む前に下げてしまい、できるだけお家の皆様で召し上がっていただきたいのですが、それも難しい場合は仕方がないので、袋に入れてゴミとして処分してください。
かつては近隣の河川へ、送り火とともに精霊馬などのお供えを小舟に乗せて流す、いわゆる「精霊流し」を全国どこでも執り行っていたと思います。
近年公式に執り行っているのは、全国的に見ると九州の長崎や熊本でしょうか。しかしいずれの地域も開催規模がとても大きくなっていて、もはや観光イベントの様相であり、しめやかな年中行事というような風情ではなさそうです。
もちろん、平成の初期頃までは浜松市内を流れる河川のあちこちでも催されていた行事ですが、昨今では、海洋及び河川環境の保全、ゴミの処理問題への対策、その他世論への配慮などを優先し、そもそも放流すること自体が忌避されるべきものとなりました。
法律や条例で明確に規制されているわけではなく、以上のような理由をもって行政の方針としては「なるべく放流は避けてほしい」ということだそうです。
なお、有志で回収サービスをなさっている団体も存在しますが、大抵は持ち込み可能なものや受入時間帯が限定されておりますので、必ずローカルルールを守ってご利用いただけますようお願いいたします。


●追記
初盆を迎えられるお家の方にも、そうでないお家の方にも、お伝えいたします。

先に触れた輪廻転生の話では、六道輪廻という死後の世界が説かれ、この六道のひとつに餓鬼道が示されています。
しかし、亡くなった後で飢えに苦しむなどと言われても、あまりピンと来ないのではないでしょうか。
実はお釈迦様は、輪廻転生の生まれかわり死にかわりの様子を、物理的な肉体の死滅や魂の蘇生として説いたわけではありません。
仏教はそれを「今を生きるあなたの心の有り様」に見出しています。
地獄道や餓鬼道に形容される辛さや苦しさは、まさにこの世で悩み惑う人々の姿そのものです。
そしてその悩みの対象のほとんどは、実際に目の前に存在する壁なのではなく、ふつふつと湧き出でる想念によって際限なく拘り続ける過去や未来の幻想であり、次の瞬間はまた別の想念が働いて忘れ…またもや新しい出来事に囚われて忘れ…そんなことを常に繰り返し、あなたがあなたをいつまでも振り回し続けるのです。
この様に苦しくなったり楽になったりと、同じ事を限りなく繰り返す人間の愚かな生きざまを、お釈迦様は輪廻転生として表現しました

周りの雑音に脅かされることのない、穏やかな心を養いたいものです。
その為には、あなたひとりだけが救われれば良いわけではないでしょう。
人は人同士の社会生活に於いて、関わり合いの中で生きる動物です。
安心(あんじん)を望む、常なる互いの行動が折り重なって、そこに初めて本当の平和がもたらされるのです。
だからこそお盆やお施餓鬼に一貫して説かれる「施しの心」が必要になります。
それは、傷つけたり傷つけられたりするこの世の悲しい現実の中でも、貪り争うような卑しき人には決して成ってはならないという、遙か昔から現代にまで通じる自戒の教えなのです。

分け合う、譲り合う、助け合う…優しい気持ちで、お盆をお過ごしください。
仏様はきっと、笑顔でお家に戻って来られるはずです。

~参考資料~
・初盆祭壇写真 資料提供:イズモ葬祭  様
https://www.izumo-sosai.jp/east/funeral/aftersupport/obon.html
・三方ヶ原合戦 資料提供:犀ヶ崖資料館 様
http://hama-svg.jp/saigagake.html
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/hakken/tanbo/201505.html
・普伝院二十四世 禅鼎泰淳大和尚 著「お盆の意味と祭りの仕方」
・城郭遺産による街づくり協議会  編「浜松の城と合戦-三方ヶ原合戦の検証と遠江の城-」