特集第7弾:供養 Our Prayers and Wishes

・前文 〜 供養とは何か 〜

葬送供養、年回供養、開眼供養、人形供養などなど、世の中には様々な“供養のかたち”があります。
それらの呼称は色々ですが、世間一般に共通して言えるのは、自分以外の何かを弔い祀るための一方的な祭祀行事だけを供養として扱っている点です。民間の理解には実際、そのような傾向があります。
一定のタイムスケジュールの中で、司祭者の指示によって只々受け身のままに過ごす、段取りが綿密に計画されたあのセレモニーの独特な空間がイメージされるでしょう。
しかしその印象だけで、供養とはこんなものだな、と安易に理解してほしくはないのです。
供養の意味や目的を考えるとき、是非この見地からも捉えてほしいと思います。それは供養をあなたの「修行」と心得ることです。
供養行事そのものは時にご修行とも表現されるのです。しかし修行と言えば、例えば滝に打たれたり黙々と坐禅を組んだりなど、まさに体を張った鍛錬の如き苦行を、その言葉からは想起なされるでしょう。
ですが、苦しんだり我慢したり、無理をして辛い時間を過ごすことだけをもって修行というのではないのです。
俗世の価値観や手前勝手な分別による固定観念の如き囚われから心身を解放して、元来の自分を取り戻し、それが自然であり常の様子として保てるように、日頃の悪癖や振る舞いを整える。寧ろこれこそが本来の修行です。

日々の修行の先には、自由と安楽の境地への気付きがあり、それは心の霧を晴らす救いの御手となります。
仏の子としてより良く生きるため、自己の有り様をつぶさに見直し、祖師の教えに適う行動をひとつずつ実践します。
ともすれば利己的になる心を戒め、よく施し、感情に溺れず、目の前のことに素直に取り組む。すると、迷いや悩みの根源に脅かされることのない無垢な姿へ、徐々に身心が正しく調い、清められていきます。
供養の主催者をもって慣例的に施主(せしゅ)と表現するのは、以上のような理由があるからであり、我々にとって、このような修行を積むことを具体的に実践できるもののひとつ、それが供養行事なのです。

あなたが手を合わす祖霊は、かつてこの世を支えた縁者。今に続く文明社会や日常生活の礎を築き、それを未来へと託すために文字通り心血を注いだ方々です。現世の我々を護り導く先達の祖師であります。したがって、祀るという行為は翻って、祖先よりいただいた我が身や我が命を大事にすることにも繋がります。
今を生きる自分がこの先の人生を迷いなく進めるように願い、そのために普段の行いを見直し、神仏に倣って生きることを、目前の縁者に誓いつつ手を合わせます。そうすることで心安らかに安堵し、明日を生きる活力を頂くのです。
さらにその恩恵は自分のみならず、いずれ子々孫々に伝播するものです。それが供養の目的であり、望まれる姿となります。

時代も世代も超越した、生者と亡者の分け隔てすら無い深淵な繋がりを感得し、様々な縁を結ぶ者達が一体となって「供に・ともに」心と体を「養う・やしなう」修行をし、積み上げた功徳の輪をさらに大きく幾重にも巡らせること、これを言葉の如く供養と言うのです。


・おりおりの供養行事について

○枕経と通夜

枕経 … 臨終の場で行われる最初の行事です。亡くなって直ぐのころ、故人の魂と体が少しでも苦しみなく落ち着き鎮められるように、親戚縁者一同が集まり、僧侶を迎え読経供養します。
しかし本来の枕経は、死に瀕した方の不安を取り除き、安らかに最期を迎えられるようにと願って「まだ生きている者に対して」臨終の場で行われる行事でした。それがいつしか死後に勤められる読経供養として広まったのです。
補足情報ですが、棚経がキリシタン排斥の目的をもって利用されていた江戸時代、枕経も同じようにその一助を担っていたことがあったようです。あくまでもこの経緯について定かではありませんが、当時の政治的背景と寺と僧侶の社会的役割からすると、そこには一定の信憑性があるようにも考えられます。
通夜 … 殯(もがり)という死者への夜伽行事がその文化的な発祥とされています。我が国では仏教が伝来するよりもずっと前から原始神道の慣習のひとつとして根付いていたものであるため、これにはとても長い歴史と様々な意味合いがあります。
生者であるか亡者であるかの境界が曖昧で、この世とあの世の狭間を彷徨い、極めて不安定な状態にある彼の者を、近親者が集まって“夜通し看取る”という方法が本来の通夜「殯」の姿であり、それがよく聞くところの「線香や蝋燭の火を一晩中絶やさずに」という慣習に繋がるのです。しかし、医療的診断や検死を行い法律や制度に則って死亡確認を済ます現代では、宗教的な作法という側面だけが残ったものになっています。ですので仏教行事に定着してからは、葬儀前日に僧侶を拝請して行う読経行事が通夜(通夜経)である、と形式的にのみ認識される傾向があります。

○葬儀
①導き
昨今の曹洞宗葬儀は前半に授戒式、後半に葬送の儀を続けて行うという二部制をとり、本来全く関連性のない別々の行事を、どこにも移動せずひとつの式場だけで行い、少々の場面転換を加えて(演出して)縮尺し一本化しています。
元々は出家成仏(生前授戒)が原則だったのですが、その他一部の宗派を含め没後作僧(もつごさそう)といって、亡き人に戒を授け僧とする儀式を、葬儀の中で行うことが多いものです。
お釈迦様から相承した戒法の系譜である血脈が三物を代表して用意され、成仏のための菩薩戒十六条が授けられ、荼毘(掩土)とともに故人は僧となる道へ進むのです。
葬儀の前段である授戒を通して、故人は菩提寺の住職に弟子として迎えられ、それと同時に黄泉の道への導きも頂くことになる、これが近年の曹洞宗葬儀の主なスタイルとなっております。
なお、葬送の儀において引導は、火葬であれば点火、土葬であれば鍬入れの行事のひとつとされています。

・・・十六条の菩薩戒・・・

三帰戒・仏教で最も重要な三宝「仏宝、法宝、僧宝」に帰依する3つの約束
(南無)帰依仏 … なむきえぶつ・お釈迦様は三宝のひとつであり、無上の教えと真理を説く大師であるから、常に心の依り処とする
(南無)帰依法 … なむきえほう・お釈迦様の教えも三宝のひとつであり、それは優れた薬の如きものであるから、常に心の依り処とする
(南無)帰依僧 … なむきえそう・そばに居る沢山の仏弟子達(仲間)も三宝のひとつであり、大事な法友だから、常に心の依り処とする

三聚浄戒・仏弟子として生きるための行動指針を明らかにする3つの約束
(摂)律儀戒 … しょうりつぎかい・清らかなる心をもって、一切の悪事を為さざることをここに誓う
(摂)善法戒 … しょうぜんぼうかい・清らかなる心をもって、日頃からつとめて善行に励むことをここに誓う
(摂)衆生戒 … しょうしゅじょうかい・清らかなる心をもって、他者のために行動し、救いの手を差し伸べることをここに誓う

十重禁戒・仏弟子として不作為を守るべき具体的な禁忌行動10箇条
(第一)不殺生戒 … だいいちふせっしょうかい・命を粗末に扱わず、むやみやたらに奪わない
(第二)不偸盗戒 … だいにふちゅうとうかい・他者の所有物は絶対に盗まない
(第三)不貪淫戒 … だいさんふとんいんかい・夫婦や恋人同士など純粋な男女の関係をいたずらに穢さない 別称は不邪淫戒
(第四)不妄語戒 … だいしふもうごかい・嘘偽りを口にせず、決して誰も騙さない
(第五)不酤酒戒 … だいごふこしゅかい・迷いの酒や智慧をくらます酒には決しておぼれない
(第六)不説過戒 … だいろくふせっかかい・他人の過ちや間違いを殊更に責め立てない
(第七)不自賛毀他戒 … だいしちふじさんきたかい・驕り高ぶった発言や人を貶める悪口は絶対に言わない
(第八)不慳法財戒 … だいはちふけんほうざいかい・物も教えも他者へ与えることを惜しまない
(第九)不瞋恚戒 … だいくふしんいかい・激しい怒りで我を忘れて感情的な言動をしない
(第十)不謗三宝戒 … だいじゅうふぼうさんぼうかい・既に三帰戒で帰依を約束した大原則である三宝「仏法僧」を決して謗らない

迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北(めいごさんがいじょう ごごじっぽうくう ほんらいむとうざい がしょうなんぼく)…四国お遍路の旅に使われる菅笠には、よくこの言葉が書かれているようです。
「迷うから三界は城となり、悟るから十方は空となる。本来東西の差異は無いもの。そしてどこに南北の違いも有るというのか。煩悩に操られたままでは、この世の至るところはたちまち焦燥と欲望の城壁にとり囲まれる。でもいざ悟ってしまえば、どこでも広々として何の妨げもない空(くう)の世界である。いや、もともとこの世界には我々が思慮分別をするところの違いなど無いのだ。ではその違いとやらを作っているのは誰だ。さあ気付け。」
迷いや悩みを生み出す原因はいつも己自身にあるのであって,実世界は常に何も遮るもののない純粋無垢な存在なのです。

②そして開蓮忌へ
日本で死者を祀るための入れ物はその昔、今のような寝龕(棺)ではなく坐龕が主でした。死後硬直した故人の体を半ば無理やり座位の状態に組みかえ、まるで坐禅を組んだような格好にして龕に納めました。これを屈葬と言います。
そして上から蓋をして縄で十文字に縛って、そこに担い棒を通して、禊を済ませた白装束の担ぎ手が前後についてその棒を持って提げます。土葬へと向かう葬列の出立です。
(仏教文化とともに日本へ伝わったとされている火葬にもそれなりの歴史がありますが、大衆に一般化したのは江戸時代後期からであり、制度として運用されたのは明治時代以降です。戦後の墓埋法にてその義務は解かれましたが、衛生上の観点から今は火葬が推奨されています。)
葬列の先頭では竜頭や花籠が揺れ、鐘や鼓鉢の音とともに、役僧や近親者、村の仲間が大勢で故人を取り囲み、野へと歩きます。
野(の)とは村民を土葬するための共同墓地のようなものであり、それこそ戦前の日本には町村ごと、田畑の中や川端など其処彼処にあったようです。
予め決めておいた場所に穴を掘っておき、故人は到着次第その穴に納められます。そして上から土を被せられるわけですが、その直前に、龕の上蓋にフシを抜いた竹筒を挿しておきます。
竹筒のまわりまで土を被せ終わって読経焼香し、葬儀は終了。葬列はまたもとの場所までゆっくりと帰っていきます。
明くる日、役僧や近親者一同はまたその野へ足を運びます。あの場所、こんもりとした土山の真ん中に伸びる一本の竹筒。
そこへ肉親から最後の言葉。一縷の望みを託して「おーい、まだ生きていたら返事をしろー!」と、もしかしたらまだ間に合うかもしれないと、僅かな可能性を信じて、声をかけるのです。
ある程度長生きをしたお年寄りを送るのならともかく、例えばそれが生まれてすぐの子を亡くしたお母様であったならば、かける声に込めた思いは如何程だったでしょうか。
呼べども叫べども土中から返事はありません。声の返らない竹筒にしがみつくご家族もいたことでしょう。暫くして竹筒は抜かれ、ぽっかりと空いたその穴へ、ついに最後の土が一盛り、被せられるのです。
ここで改めての読経焼香。埋葬された者はこの日を境に、先祖代々とともに尊霊として祀られることになります。
逝去当日(現代では葬儀前日)の夜には通夜が営まれ、翌2日目には葬儀、開蓮忌はそれら葬送行事の最終日に、死後3日経って行うから “三日目” という通称が付いたのです。
人生の終わりを皆で看取り確かめるという、深い情念や悲哀の心が渦巻く、実に生々しい一場面がそこにはありました。これが我が国における開蓮忌の古い物語です。
ちなみに、坐龕に挿す竹筒のフシを予め抜いておくからこそ、かけた声が龕の中の故人に届くわけですが、本来それは、龕の中でもし故人が甦生したら呼吸ができるように、と計らって通気管として工作しているものと思われます。いずれにせよ開蓮忌はもともと、最終的な死亡確認をする場でもあったわけです。
開蓮忌行事の発祥は10世紀以前の宋(中国)の時代に遡りますが、その経緯については他所に十分な出典があるため、解説を省きます。

○追善供養
四有輪転説にて、命ある存在は総じて有情(うじょう)と言います。そして有情が生まれて育ち、老いて死に、再び生まれるという生生流転のストーリーを、四有(しう)という言葉で表します。
四有は、生有(しょうう:誕生の瞬間)、本有(ほんう(ぬ):現世に生き活動している時間)、死有(しう:死去する瞬間)、中有(ちゅうう:死去してから次の命に転生するまで、これを中陰とも言う)に区別します。古代インドの輪廻転生思想がこの考え方の発祥とされているものです。
さらに仏教がインドからシルクロードを通って中国へ伝わった後では、ここに新たに十王信仰(じゅうおうしんこう)という道教由来の教義が加わりました。
中有とは亡くなってから四十九日忌までの間、即ち死有以降に次の行き先が決まらない時間帯ですが、この間は7日毎に過去の行いが審議決裁され、転生先の行方を見極められるものである、と解釈されたのです。
十王信仰上の官吏による裁判は、四十九日忌を過ぎても三回忌までは延長して続くものとされ、それに倣い一定期間の供養の日程が組まれるようになりました。ちなみに古代中国では、この三回忌を終えるまで服喪期間が続いていたそうです。

死後7日毎の読経行事(中陰供養・七日経)やそれに続く年回供養の慣習、これらが始まり一般に定着した由縁は、以上のような事情がもとになっていると研究されています。
なお、以下に挙げる本地十三仏と重ねた日本特有の文化は、神仏習合思想のもと鎌倉時代に改めて確立されたものと言われており、三回忌が終わった後でも七回忌、十三回忌、三十三回忌と続けるような慣習は、室町時代以降で徐々に一般へ根付いたものとされています。

・初願忌 しょがんき(初七日・しょなのか)十王は秦広王(しんこうおう)
新亡精霊成仏のための道が拓き、前途がご無事であるようにとの願いをたてる日。本地仏「不動明王」のお導きをいただきます。
生前の行いを全て詳らかにし、過去への未練や執着も断ち切って、成仏への道に進む覚悟を決める時、不動明王様は救いの手を差し伸べてくれます。

・以芳忌 いほうき(二七日・ふたなのか)十王は初江王(しょこうおう)
三途の川にて芳船という船に乗り、黄泉の道へと旅立ちます。本地仏「釈迦如来」のお導きをいただきます。
これより生前の行いの審査が始まりますが、釈迦如来、いわゆるお釈迦様は、仏の位に就くまでの道中を見守る本尊仏です。

・洒水忌 しゃすいき(三七日・みなのか)十王は宋帝王(そうていおう)
生前の身心を、川の水で清めます。本地仏「文殊菩薩」のお導きをいただきます。
文殊菩薩は釈迦三尊の左座(向かって右座)を司り、お釈迦様の智慧を表す菩薩様です。邪な気持ちに曲がらぬ正しい心と幸福への誘いを賜ります。

・阿経忌 あきょうき(四七日・よなのか)十王は五官王(ごかんおう)
生前の所業をもとにした裁定が為されます。ここでは本地仏「普賢菩薩」のお導きをいただきます。
普賢菩薩は釈迦三尊としてお釈迦様の右座(向かって左座)に位置する脇侍であり、お釈迦様の慈悲を体現している菩薩様です。

・小練忌 しょうれんき(五七日・いつなのか)十王は閻魔王(えんまおう)
裁きは継続されますが、ここでいよいよ、彼の有名な閻魔大王の出番となります。本地仏「地蔵菩薩」のお導きをいただきます。
お地蔵様はサンスクリット語ではクシティガルバと言い、大地の恵みを育む神という意味を持ちます。
仏教がインドから中国へ伝わると、地蔵の存在が閻魔大王に重ねられるようになり、具体的には宗の時代の頃から、地蔵菩薩は閻魔大王の化身であると説かれ始めたのです。

・檀弘忌 だんこうき(六七日・むなのか)十王は変成王(へんじょうおう)
閻魔大王による裁定は続き、生前の所業の全てが秤にかけられます。本地仏「弥勒菩薩」のお導きをいただきます。

・大練忌 だいれんき(七七忌・しちしちき)十王は泰山王(たいざんおう)
死後の魂の行き先は六道のどこになるのか、ここで正式に決裁されます。本地仏「薬師如来」のお導きをいただきます。
7日毎の供養を満了する7回目、いわゆる7×7の四十九日忌であり、これにて中陰供養の終いとなることから満中陰とも呼称されます。
“大きく練られた” と称される通り、故人を送ったあとの生活を今日まで繰り返しつつ、心に上手く納めることができるようになった、この日を迎えるまでにご修行し積徳されたのは、目前の仏様のみならず親戚縁者の方々もまた同じことなのです。
全員が一丸となって成仏への道程を辿ったその事実を祝うが如き言葉として、四十九日忌にはこのように特別な言葉が充てられています。
なお、故人の成仏を記念する日として、または中陰供養を重ねた遺族の心の区切りとして、この日に納骨をするのが通例です。
実際の忌み明けをいつにするのかはご家庭それぞれの考え方次第とすべきですが、忌中は大練忌までとしてひと段落させて、この日を境に少しずつ日常生活へ戻ろうとする形が、古くから伝わる慣習です。

下記には補足として、大練忌を終えた後、三十三回忌までに営まれる年回供養を簡単に列記いたします。なお、お寺様によっては慣習上行わない追善供養もあれば、これ以外にも行うことを推奨している追善供養があります。

・百か日 別名では卒哭忌(そっこくき)。家族を失った悲しみと弔いに明け暮れる日々から心持ちを切り替えるための節目の日。十王は平等王、本地仏は観世音菩薩です。
・一周忌 別名では小祥忌(しょうじょうき)。没後1年という節目を健康無事に迎えられたご縁に感謝し、さらなる精進潔斎を誓う日。十王は都市王、本地仏は勢至菩薩です。
・三回忌 別名では大祥忌(だいしょうき)。没後2年の到来を受けて、故人の大いなる恩義に対して縁者一同で報徳を誓う日。十王は五道転輪王、本地仏は阿弥陀如来です。十王信仰における年回供養はこれで最後となります。
・七回忌 別名では休廣忌(きゅうこうき)。没後6年を経て、故人霊位はやっと仏として確立した地位に就き安住いたします。本地仏は阿閦如来(あしゅくにょらい)です。
・十三回忌 別名では称名忌(しょうみょうき)。没後12年を数え、故人の面影を忘れぬように縁者皆でその名を称え、改めて生前の威徳を讃える日。本地仏は大日如来です。
・三十三回忌 別名では清浄本然忌(しょうじょうほんねんき)。一説によると没後32年で、故人はその土地の神様のように自然と一体な姿に成ると言われております。本地仏は虚空蔵菩薩です。
十王信仰並びに本地十三仏信仰による年回供養の慣習は、この三十三回忌を迎えて全て満了となるために、これをもって弔い上げとする慣習が日本には古くから続いています。


・後文 〜 供養のこころ 〜

極端なことを言ってしまえば、前文の段階で既にこの「供養と何か」は解説が十分に済んでおり、それ以降は蛇足であろうから、各項の解説は全て削除してしまってもよいのではないかと思いました。
文章にすればするほど物事の本質からかけ離れてしまっているようで、それを補完するようにまた新たな文章で説明を重ねる度、歯痒い感覚になります。
ですが最後にひとつ、曲がりなりにもこれだけは書き足しておきます。それは供養する目的を説くわけではありません。

人はなぜ供養する場をもち、供養そのものを大事に続けてきたのか、です。
なぜ足繁く大勢で集まり、例年毎祭の宗教的行事を開き、神仏に思いを託してきたのか。それは、日常に対しての非日常の大切さを、何百何千年の歴史の中で、各時代の人々が実感してきたからです。
供養にまつわる日常と非日常、これについて、二つの見解を以下に表します。

先ずは敢えて言いますが、行住坐臥の繰り返しは、あくまでも望まぬ喧噪や変化のなかに流れる清き川の如くあるから、普遍的な振る舞いとして対比されて輝くのです。
それが何の変化もない、ただ寝て起きて食べて排泄して…を命尽きるまで繰り返す人生だとしたらどうでしょうか。端的に言えばマンネリな時間を延々と過ごすだけで一生を終えるということです。
それではおそらく誰もが、辛い、少しでも早く抜け出したい、変化が欲しい、と、違う生活リズムを求め動き出すでしょう。
同じことばかり続く毎日では、結果として体だけでなく心までも壊してしまうことを、我々は本能で知っているからです。
そこで始められたのが祭祀という非日常です。ここで言う祭祀とは広義における冠婚葬祭や町村の祭典、年中の節句行事や各種のあらゆる記念式典も含めて表現します。
そのなかに我々の言う普段の供養の行事もあって、家族親族一同が敬神崇祖の式典を開いて定期的な寄合をし、意図的に日常のおりおりに緩急の変化をつけ、人生にハリを持たせたのです。
なお、これらのことは人類が健康で文化的な生活をするためには特に必要なことであったと、民俗学や社会学の見地からも十分に研究されているそうです。

日本全国に何万と存在する神社仏閣、それら歴史ある施設のほとんどは各時代の人々が現世の安寧を冀い、後世への希望を託すために建てたものばかりです。
もちろん発起した理由や大義名分はそれぞれ違いますが、いずれも草創期の社会的事情は同じで、今のままではいけない、どうすればより良い世の中を実現できるだろうかと、一生懸命に考えて行動した結果です。
想像してみてください。モノで溢れて何でも揃う現代の物質文明とはまるっきり違う、当時の枯渇した暮らしを。
この国のあちこちで日常的に多くの血が流れ、全てが荒廃しきっていた時代に、神仏の加護をいただける場を作り、そこに皆で集まって祈り、安堵し、時には説法や祭事を楽しむという非日常を求めたのです。
しかし今と昔では日常と非日常のベクトルが違いますから、肌感ではわからないかもしれません。昔で言うところの非日常は、現代の国民にとっては、もはや日常ですから。
でも、その夢見た非日常を先人たちは、弛まぬ努力で少しずつ実現させ、日常自体を変えていったのです。
こういった経緯を実体験していないからこそ現代の日本人は自分の足元がわからなくなる、ともすれば隣の芝生はここより青いかもしれないと、無いものねだりをしてしまうのでしょう。
かつての民が一心に懇願した「平和な毎日」という名の非日常は、既に目の前にあり、それを常に享受できる世の中に、我々は生まれながらにして胡座をかかせていただいているということも、手を合わせるべき忘れてはならない事実です。

親から子へと代々に。この世を彩るもの全ては、人の思いの結実であります。
混沌とした毎日にささやかな楽しみと幸せを追求した、少しでも安らかなる居場所を求めて、それを具現化させようと願った、そこに自然と供養する場があったのです。
「供養する」ことは生きることそのもの。祖先からいただいた貴重なその命を、人生を、今この時に精一杯輝かせることです。
少し長い文になりましたが、これをもって結びの言葉といたします。ご読了ありがとうございました。


○写真:https://www.freepik.com/free-photo/happy-family-silhouette-sunset_8380524.htm
○参考文献
松涛弘道「仏事・法要のすべて」日本文芸社
青山社編集部「よくわかる図説曹洞宗の行事作法」青山社
曹洞宗総合研究センター「葬送儀礼と民俗」曹洞宗宗務庁
柴田芳憲「曹洞宗葬儀・法事のしきたりとその由来」曹洞宗静岡県第一宗務所
曹洞宗岐阜県青年会「曹洞宗の葬儀と供養 〜おくる〜」水曜社