特集第5弾:安間稲荷大明神

『遠江ノ国安間の里稲荷吒枳尼尊天はその昔、元暦の頃、源の御曹司蒲の冠者範頼公の御遷宮なり。
その歴史をたづぬるに詳かならずといへども、範頼公勅定を蒙りて木曾義仲を追討のみぎり大深願を起させ給ひ皇国惣本宮山城国伏見稲荷大明神へ御参籠ありて深く祈誓をこめ御加勢を乞ひ給ひしに、その感應すみやかにして粟津の合戦に勝利を得たまひ、づゞいて一ノ谷の合戦に平家の一門を亡しその高名天下に輝きしはこれ偏に稲荷大明神の加護による所なり。
而して御凱陣の後御神徳のあらたかなることを御感のあまり、当国飯田の里に御遷宮あり、これ即ち伏見稲荷の御分社にして地名をも「稲荷山」と名付け給ひしは故あるなり。
その後御神徳益々盛に行はれ神通不可思議の利生あり諸人ひとしく御尊崇し奉りしが、就中徳川家康公は幾度かの御参籠あり、既に三方原の合戦に御祈願をこめ給ひしに忽ち霊験あらはれて神変不可思議の奇端を蒙り御開運ありしは全く神力の加護と御感淺からずして御印章を下されしといへども今は存せず、かるが故に他の勧請稲荷などと同様に論ずるものには非らざるなり。
然るに慶長年間、徳翁禅師稲荷山竜泉寺住職となりしとき故ありてこの御神務をあずかり、神務厳重にして毎日怠慢なく神前に於て大般若理趣分経を転読し、天下太平国家安全五穀豊熟商売繁栄諸願成就の祈禱修行し給ふ。
これによりて諸の善男善女福徳円満にして賊難病難を免れ、諸の勝利を旨として利生良縁を得せしめられ給ふ。
然るに禅師晩年に及び慶長年中当山の地に草庵を結び閑居ありしに毎夜霊夢の御告に当山の地に遷らんことを乞ひ給ふにより、当山の境内に御堂を設け御遷宮あらせられ給ふ。
これより安間の里稲荷吒枳尼尊天は益々諸人の尊信を受け参詣人常に盛なり。
かくして幾星霜、幾代の住職を経て今日普伝院二十四代拙僧に至るまでよくこれを御守護し奉りしなり。
その間の歴史は不幸にして明治二十七年の大火災のため諸記録見当らずといへども、安間の里の老人よくこれを実証す。
願わくば神徳の加護もって聞くべし。』


以上の記述は、天保13年(西暦1842年)8月に堂宇修復のため広く基金勧募をした際に発刊した木板摺り「安間稲荷略縁起」の内容が元になっており、ここでは原文に極めて近い文字起こしをいたしました。
残念ながら木板(原板)自体も現在は残っておらず、当山二十四世住職がそれを元に作ったこの文面が、往年の安間稲荷を温ねる唯一の保管資料であります。この写真に写っているのは昭和50年前後の稲荷社殿で、大鳥居はおそらく建てたばかりの頃。今は無い左右の植え込みや松の大木、露わになっている土面が目立つ。瓦屋根は葺きなおす前で、入口両側の火灯窓と漆喰の壁(現在はサッシ窓)が確認できる。参道は今のものに比べて少し狭い。

日本における稲荷信仰の原点、それは実に古墳時代まで遡るそうです。
山背国風土記に依れば和銅4年(西暦711年)、京都稲荷山に稲荷神が降り立った故事をもって、日本の稲荷神社の総本宮は京都伏見の稲荷大明神となりました。
神奈備の山の奥深く、三ヶ峰に坐します五穀豊穣の神は、それ以来全国の稲荷大神の起源として御鎮座されております。

永く自然神かつ農耕神として崇められていた稲荷神は平安時代に入ると、空海(弘法大師)による密教と習合することで変容を始めます。
空海は稲荷神と出逢われ、東寺造立のための材料に稲荷山の御神木を使ったと言われており、伏見稲荷を東寺の鎮守祭神に迎えます。
稲荷信仰と仏教は、密教が導入部分となって縁を結びつつ、徐々に荼枳尼天との繋がりを見せるようになります。
インドではダーキニーとして「鬼神」と称されていた荼枳尼天は、他の神仏と混淆しながら仏性を見出され善神格化し、密教上の尊天となりました。
ここから広義で同一視されていった稲荷神と荼枳尼天は、本来の農耕神という性格と併せて、商業神や屋敷神としても信仰が広がったため、全国各地に勧請されます。
江戸時代の中期頃になると「向こう横丁のお稲荷さん」とも呼ばれるくらい、大小とりどりの稲荷社殿や祠が街や民家のあちこちに祀られるようになり、世間の様々な思いに応えるように、現世利益の神としてその在り方を変えていきました。

稲荷信仰が市井に広がり民間に周知されていった背景には、この「出逢いと交わり」が不可欠だったようです。
そして、本地垂迹という懐の深い考え方のもとに置かれなければ、きっとこれ程までに稲荷信仰の広がりは無かったものと思われます。
ちなみに荼枳尼天信仰をはぐくむ国は限られており、インドとチベットの一部、あとは日本だけです。
また、荼枳尼天の容姿は弁財天(こちらも穀物神である)がベースになっているようで、荼枳(吉)尼天と吒枳尼天は表記こそ違いますが同じ存在です。
繰り返し申し上げれば稲荷神と荼枳尼天は、出所を全く異にしながらも、言うなれば日本の神仏習合文化の下「神々習合」し、やがて同等の神格を持つ存在として扱われるようになった、このような関係性のある神様なのです。

寺院で祀られる稲荷として一般的に名の知られた代表例はやはり「愛知の豊川稲荷」や「岡山の最上稲荷」かと存じますが、どちらも祀られているのは荼枳尼天です。
なので一旦、豊川妙厳寺鎮守祭神である荼枳尼天の由来について、簡単に触れておきます。
以下リンク先は豊川稲荷様の公式ホームページに掲載されている紹介文です。参考がてら是非こちらもご覧になってください。
https://www.toyokawainari.jp/about/history/
鎌倉時代中期、曹洞宗の開祖道元の高弟に、寒巌義尹禅師(以下禅師と表記)という方がおりました。
禅師は日本での布教と向学のために宗(ソウ・当時の中国)へ渡るのですが、その2度目の渡航の折に海難事故に遭います。
荒れ狂う海に揉まれ命の危機に瀕した時、舳先にそれは現れました。荼枳尼天です。
禅師の乗る船のそばで荼枳尼天は、日本への帰路をずっと見守り寄り添ったのです。
この出来事に深く感激された禅師は、帰国後自ら霊神の形像を刻まれ、護法の善神としてお祀りになり、加えてお弟子様にも信仰をすすめ御祈祷するよう諭されました。
禅師は熊本に大慈寺を開き荼枳尼天を祀ります。
以降輩出された数多のお弟子様により、日本各地にたくさんのお寺が建てられますが、彼らは皆禅師の教えを引き継ぎ、同じように荼枳尼天を祀るのです。
それら末山寺院のひとつとして浜松に普済寺、さらにそこから13軒の門流寺院が全国に誕生します。
その13軒の内のひとつが、禅師から数えて6代目の法孫「東海義易」により興された、豊川の妙厳寺です。
大慈寺の末山寺院ではいずれも、禅師の教えを忠実に守り、荼枳尼天を信奉し伝え続けてきました。
禅師から始まる荼枳尼天継承の系図を表す言葉として、これを俗に「寒巌派稲荷」と申します。
これに代表される仏教系稲荷神「荼枳尼天」は上述の通り、末山寺院の建立や仏教の流布に追随して全国各地に広まり、御堂や祠が街のあちこちに設けられ、広義での稲荷信仰の一般化が実現されたのです。
日本に於いて「お稲荷さんには神と仏の2系統があって…」とよく聞かれるのは、大凡このような事情が理由の一端を担っていると解釈いたします。

安間稲荷掛軸。鎮守祭神は稲穂を担ぎ白狐を従える白髪の老翁、奥の院・稲荷大明神である。前立本尊の十一面観音は通常脇侍に不動明王と毘沙門尊天を置くようだが、毘沙門尊天の代わりに大黒尊天が座している当山の三尊は特殊な例と思われる。では当山の安間稲荷はどういった存在なのかということですが、上記の縁起文の通り結論から申し上げれば「神社」に類似または相当するものであり、他の寺院様で鎮守祭神として祀られている荼枳尼天のお稲荷様とは違い、完全なる神道系祭神として迎えられ神仏習合を果たした「稲荷大明神」なのです。
蒲の冠者源範頼公の、伏見稲荷への戦勝祈願に端を発した稲荷勧請を契機に、一定の経緯(後述にて言及いたします)のもと当安間の地に至った、山城国伏見稲荷の正統なる分社であります。
家内安全や商売繁盛の願いを託される霊験あらたかな五穀豊穣の神として、過去数百年に渡ってこの地で普伝院と共存共栄してまいりました。
当山の歴史を綴ったページでも少し触れておりますが、江戸時代から明治時代にわたって、地元の一般大衆以外に古典芸能の家元からも信仰を集めるような、地方の稲荷神としては特別なご縁を頂いていた時期があります。
江戸末期から戦前までを中心とすれば、それこそ材木景気に沸いた嘗ての中野町とともに、遠州浜松に知らぬ者は居ないほどの知名度と、目を見張る御利益を誇った稲荷神でした。

他方、稲荷山龍泉寺にあった頃か安間に遷宮した際に、既に本地仏との習合を済ませていて、今のような祭祀方法に(似通った状況まで)なっていたのか、それとも明治維新までは仏像や仏具を一切持たず仏式行事のない「純粋な神式の稲荷大明神」としての歴史を刻み、廃仏によって方向性を変えたのか、ここは定かではありません。

現時点で稲荷堂内に祀られる弘法大師と大黒尊天像、特に前立本尊の十一面観音(本地仏と推定)が、いつ取り入れられたものなのか、依然として不明のままです。
稲荷神の伝承系譜はただでさえ複雑であり、そこに廃仏毀釈、そして以下年表に記載がある通り明治27年の大火災によって、当山の古い記録は悉く消失しており、昭和期ではさらに戦争の災禍もくぐり抜けている故、ある程度妥協して理解すべきは仕方のないことでしょう。
ただ前述の通り、弘法大師は京都の東寺を通じて伏見稲荷と密接に繋がりますし、大黒尊天は荼枳尼天を仏に導いた神であり大日如来や大国主命とも重なって縁がひときわ深いですから、何らかの因果関係はあるものと考えております。

では以下にて、当山の稲荷大明神が安間の地に至り今日このように在るまでの沿革数百年を時系列で追いかけつつ、その背景即ち「一定の経緯」をなるべく詳細に記述してまいります。
終始推定の域を出ない情報ばかり目立つのが辛いところですが、何卒ご容赦ください。
歴史年表等を傍らに置いて比較しながらお読みいただきますと、各出来事とその時代背景がより克明に伝わるのではないかと思います。

平安時代末期〜鎌倉時代初期

・1150年【久安6年】
源範賴の生誕。遠江國蒲御厨(蒲神明宮の領地550町歩を指す)に生まれた男子ということで、蒲の冠者(かばのかじゃ)との異名で呼ばれる。
源義朝と池田宿の遊女(地元豪商の子女という説もある)との子で、今で言う政略結婚によって生まれた源氏の一族。源頼朝とは異母兄弟にあたる。
粟津・一ノ谷・壇ノ浦と武功を上げたことに稲荷神のご威徳を感じた範賴公は、閑居を置いていた蒲御厨は飯田の地に稲荷勧請をする。
伏見稲荷へは、上洛の折々で度々戦勝祈願に訪れていたのではないかと推察する。
現飯田町への稲荷勧請は1170〜1185年頃、平安時代の末期と予想できる。(治承・寿永の乱の前後)
このとき、勧請地を伏見の地名と同じく「稲荷山」と称する。
・1193年【建久4年】
範賴は兄頼朝に謀反の疑いをかけられ(頼朝の妻北条政子の策略とも言われる)修善寺へ流され、程なくして討たれる。
栗毛の愛馬(平氏を九州にて制圧した時に頼朝から賜った馬ではないかと予想)が範賴の無念と郷愁を届けようと首を咥えて御厨まで走り来たって息絶える。(龍泉寺の駒塚伝説)
範賴死去にまつわる話は諸説あって、祭祀されている場所も日本各地に複数ある。
範賴は死後、愛馬共々静かに弔われる。別荘地や勧請稲荷はそのまま残されることとなった。

室町時代中期〜後期

・1454年【享徳3年】
現在の龍泉寺所在地より北西へ約200m離れた場所に、普済寺十三門派の一ヶ寺として龍泉寺前身「東光山龍泉庵」が興される。ちなみにその場所は現在【山寺野・さんじの】という地域名を残しており、往年の仏閣がそこにあった史実を今に伝えている。
・1521年【大永元年】
応仁の乱の後、遠江に進出した今川氏(氏親:義元の父)より範賴の屋敷跡を拝領した龍泉庵三世大和尚は、寺を現在地に移遷させる。
山号を地名に倣って「稲荷山」に変更し、源範賴を開基と定め供養塔を建立し、改めて正式な曹洞宗寺院「稲荷山龍泉寺」が誕生する。
それは、範賴の死去から約330年後のことであった。
龍泉寺前身の龍泉庵が山寺野に開闢された時に、本寺の普済寺から寒巌派稲荷(荼枳尼天)を引き継いだはずだが、公式な文献等が無く定かではない。
だが、本寺普済寺並びに他の十三門派寺院が荼枳尼天を祀っていることと、龍泉寺の稲荷堂に祀られる稲荷神が騎狐の形相であり荼枳尼天に酷似していることから、例に漏れず継承祭祀した可能性は非常に高いと思われる。
そして、伽藍を移遷した場所は蒲冠者ゆかりの土地であって、更にそこには、範賴公が自ら伏見稲荷から勧請した稲荷神が、既に祀られていた。
よって1454年に飯田の地に誕生した龍泉寺ではその時、歴代祖師より信仰を引き継いだ荼枳尼天と、平安の世から永く飯田の里に根をはる京都伏見由来の稲荷神が混在することになったはずである。
範賴の供養寺としての面を併せ持った龍泉寺はそれから80年間程、境内地に荼枳尼天と稲荷神を併存させて祀ったと予想する。

安土桃山時代末期

・1596年【慶長元年】
龍泉寺九世德翁秀養大和尚は、隠居寺として普伝院を興すとほぼ同時に、神託により範賴勧請の稲荷神を安間の地へ遷宮(もしくは再勧請)する。
普伝院建立は八柱神社の当時の神職主導のもとに行われたと伝わっているので、別当寺(神宮寺)としての機能も期待して迎え入れられたのではないかと考えられる。
なお、ここから少なくとも江戸時代を通して明治元年までの約270年間は、普伝院・稲荷大明神・八柱神社が安間村にて境内地を共有していたことになる。

明治時代以降

・1868年【明治元年】
徳川幕府が倒れ明治に入り、神道国教化にて本地垂迹が否定された影響から、世の中が廃仏毀釈の風潮となる。山門の左脇には「安間吒枳尼尊天」として、仏教系稲荷の名称が彫られた石塔が立つ。
普伝院は一定の規模を満たす寺院だったため廃絶はどうにか免れたものの、末山寺院の大半は取り潰しとなり、さらに新政府による地租改正と上知令により、境内地以外の寺領が一部没収される。
同じ頃に八柱神社は安間を離れ、薬師町の現在地(和田小学校の東隣)へ遷宮する。
稲荷大明神も普伝院との分断を迫られる危機的状況に陥ったが、習合稲荷として従前より名称を「吒枳尼尊天」と公示しており、それが「普伝院は仏教由来の稲荷を祀っている」というカモフラージュ効果を生んだことで、稲荷神だけは普伝院に留めることができたようである。
なお冒頭資料の通り、天保13年の募金勧募の時点で既に「吒枳尼尊天」と名乗っているので、名称変更自体はそれ以前に為されたようであり、廃仏をきっかけに行ったものではないことが見てとれる。
仏教弾圧の傾向は、水戸学思想(神道国教化の礎)の浸透にあわせて徐々に強まり、江戸時代後期ともなれば全国的に起こり始めているので、対策としては無理もないことであろう。
とは言え倒幕後の新時代を迎えるまでは、神仏の区別をさほど厳格にしていたわけではなかったはずだが、それ以降の安間稲荷は「仏教由来の荼枳尼天」としての一貫した立場で祭祀をすることを余儀なくされる。
・1894年【明治27年】
この年に当山伽藍は大火災に遭い、稲荷堂を除いたすべての建物や重要資料、歴史的文献の殆どが灰燼に帰したとされている。
実はこの頃の日本各地の寺院では、原因不明の火災が相次いでいる。当山に関しては諸説あるが、おそらく廃仏毀釈を大義名分にした付け火によるものと思われる。
石塔は大正10年11月の建立であり、廃仏の影響下で作成されたことを知る史跡である。平成期に入って現在の山門脇へ移築したが、旧東海道へ伸びる南北の小道が正式な参道だった時代(昭和8年以前)は、街道沿いの入り口付近にて寺標として機能していた。
・1945年【昭和20年】
大東亜戦争後GHQ指導下の農地改革(農地解放)によって、寺領の大半を国に没収される。
前述の上知令を含めた2度にわたる寺領の収用制度により、いよいよ経済的な大損失を被る。
明治から戦後までの間は、教義や慣習の改廃を事実上強制された期間でもあるわけで、宗派を問わず全国の寺院にとって大変な受難期であった。
一方、神道は国教から民間の宗教へと戻されて、国策として神仏を分断し習合を否定していた時代はここに終わりを迎える。
しばらくして「安間吒枳尼尊天」という名称を「安間稲荷大明神」という神格名称に統一し、昭和を終え、平成、そして令和時代を迎える。
・2022年【令和4年】
本記事作成時点で、当山鎮守稲荷大明神は京都伏見より飯田の地への初勧請から約850年、稲荷山龍泉寺より遷宮(普伝院開山)から約430年を経過する。

※年表についての補足情報 
源範賴公は京都伏見稲荷を信奉し、果てはご自身が生まれ育った地へ勧請され、稲荷神をごく身近に祀るようになります。
これは治承・寿永の乱に絡んだ戦勝祈願が発端とされるわけですが、上洛ついでにたまたま寄った伏見稲荷にご縁をいただいたから後で分社して祀ったという話だけでは、稲荷神を屋敷内に迎えるほどの動機の裏付けとしては、いささか弱いのではないかと感じていました。
そこで稲荷山龍泉寺の立地周辺へ目を配りますと、山門から西へ100m程の所に稲荷神社があります。
往年の龍泉寺は飯田の地に16,000坪を超える程の寺領を擁しておりましたが、それは即ちその殆どが範賴の元別荘地に他ならないわけで、浜松市立東部中学校北側にある範賴愛馬の駒塚と同様に、この稲荷神社も元は龍泉寺境内地(別荘地)内に在ったか、極めて近接して建っていた社殿であろうと推察されます。
ならば、この稲荷神社は範賴が自ら伏見より勧請した稲荷神と何らかの関係があるのではないかと思い、調査を進めたところ、「本殿には伏見から勧請した御祭神が祀られている」ということまでは判明しました。ですが、創建時期が西暦800年頃と公表されていることから、直接的には繋がらないのです。
それを裏付ける情報として「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に名称が載っていることが挙げられます。
これは全国の神社一覧のようなもので、編纂時期は平安中期905年〜927年でありますから、この稲荷神社の創建時期は、範賴が飯田の別荘地に稲荷勧請をするより約250年前は下らず、記録通りならば約370年も前になります。
それこそ範賴の育った蒲の地の社殿「蒲神明宮」と同じように、遠州に太古の昔から存在した神社であったわけです。
しかし、ここで私にはひとつの論が成り立ちました。
『範賴は幼少期からこの稲荷神社を、故郷にある身近な存在の氏神として少なからず縁を感じ崇めていたから、上洛する度にその本宮である伏見稲荷へと足繁く訪れ、戦勝祈願の末、平氏掃討の暁には自ら稲荷勧請をし、邸宅の側に祠を建てて祀ったのではないか。』
全ては信心の賜物である、との解釈です。あくまでも勝手な独自の仮説で締めてしまいましたが、こう考えれば割と経緯が納得でき、腑に落ちるような気がいたします。


– あとがき –
京都稲荷山の下山ルート途中に、豊川吒枳尼眞天と銘打つ幟旗に囲まれた結構大きいお社があります。
初めての伏見稲荷参拝も終盤、日も暮れかけた道中何気なく目を遣るとそこに現れた「豊川」の文字。これ如何にと思い豊川稲荷様にお伺いしますと、それは豊川の信者の誰かがいつの日か設けたであろう祠が徐々に大きくなったもので、豊川稲荷はその存在を認識してはいるものの、公式な拝殿や別院としての登録はしていない、というご回答を得られました。
稲荷山神域のあちこちに荼枳尼天が祀られることは、神仏混淆の江戸時代までは常態であったとは言え、上記本文のように豊川の荼枳尼天と伏見稲荷は発祥が全く違うわけですから、何とも異質な佇まいでありました。
習合稲荷によるお塚信仰の慣習はこのように特殊な繋がりさえも生み出すものかと、少々面くらったのを覚えています。

安間稲荷には昔「姫街道を往来するときは安間と豊川双方の稲荷を両詣りすべし」という逸話がありました。
さらに、これを怠ると男女の縁が切れるとまで噂が立った程です。
安間稲荷は東海道から分岐する姫街道の安間起点に近接し、豊川稲荷は姫街道が東海道に合流する愛知の御油宿すぐ手前の寺院なので、それぞれ姫街道の東端と西端付近に存在する両稲荷神であり、立地の状況も相まって、愛法神としての稲荷による男女結縁の話が転じて伝わったものと思われます。
大正初期あたりの日本はまだ、車とともに人馬にて通行するのも一般的でしたから、姫街道を通って遠州三河間を通る若人はこぞって両稲荷詣をしながらの行き来をしていた…いつまでそのような慣習が存在したのかはわかりませんが、想像をしますと、嘗ての賑わいが目に浮かぶようです。

– 所感 –
安間稲荷大明神の変遷のみならず、本寺の稲荷山龍泉寺の成り立ち、そして源範賴公の半生を調べ、さらには各町郷社の淵源までも確認するという、神社仏閣を双方向に調査した奥深い歴史探訪となりましたが、これも仏縁の為すところでしょうか。
またこうして歴史を遡る中で、もともと八柱神社は普伝院や稲荷大明神とともに建ち、約270年間は2社1ヶ寺が境内地を共有して同居しており、明治初期に八柱が薬師に抜けて普伝院と稲荷が残って約160年経つ、という一連の流れを再確認できたことが、今回の調査の思いがけない副産物でした。
現状手に入れられる文献はなるべく多く集め、そこに散見された伝承文言をひとつの考察にまとめる上で、過去の事実という1本の線にどれだけ近似値で迫ることができるか、今回はある意味そこに挑戦をしたつもりです。
これに甘んじることなく今後も少しずつ調査を継続し、内容の確実性を追究していこうと考えています。
加除修正は不定期で施されると思いますが、ご理解をいただければ幸いであります。
また、この記事を作成するにあたり、取材にご快諾いただけた各所関係各位には、この場を借りて改めて厚く御礼申し上げます。

安間稲荷大明神・新年大祭祈祷大般若会 毎年1月15日
※幟旗供養については当ホームページ「授与品その他」内にて紹介しております

・参考文献
浜松市立天竜公民館 編
(平成6年)『わがまち文化誌 天竜川と東海道-浜松の東玄関-』
中村 陽
(平成21年)『イチから知りたい日本の神さま2 稲荷大神 いなりおおかみ』戎光祥出版
三好和義・岡野弘彦ほか
(平成16年)『日本の古社 伏見稲荷大社』淡交社
武光誠
(平成17年)『知っておきたい日本の神様』角川文庫
羽田守快
(令和2年)『未来を開く不思議な天尊 荼吉尼天の秘密』大法輪閣
酒井謙祐
(昭和55年)『ナーム 2月号 特集・お稲荷さん』水書房
川口高風
(平成15年)『普済寺の輪住と尾張の寒巌派』補陀山円通寺
川口高風
(平成21年)『普済寺十三門派の門流』愛知学院大学禅研究所紀要第37号抜刷