三仏忌(さんぶっき)とは、大恩教主本師釈迦牟尼仏(だいおんきょうしゅほんししゃかむにぶつ/お釈迦様)の、生涯を通した大きな3つの節目を記念する日です。
曹洞宗のみならず世界中の仏教教団に於いて、これら記念日を恭敬する法要行事は、宗派を超えて特に大事にしております。
忌日としては涅槃会だけが相当し、降誕会と成道会について正確には忌日ではないので、三仏会(さんぶつえ)とも表現されます。
ちなみに今回は三仏忌特集の体裁をとりながらも、お釈迦様の一生を辿るような記述にしております。
なるべく要点を絞りつつ時系列にまとめましたので、2,500年前の遙か昔に思いを馳せながらお読みいただければ幸いです。
以下の説明に添付している写真(タップで拡大できます)は、各忌日の行事で実際に使っている当山収蔵の仏具です。
説明の内容については当山僧侶独自の解釈が多少含まれますので、ご了承ください。
・降誕会(ごうたんえ)4月8日
別名では花まつり、または灌仏会(かんぶつえ)とも申します。
お釈迦様のご生誕日正当を記念し、花で飾り付けた御堂を設け、その中央に据えた誕生仏に甘茶をかけて読経ご回向しお祝いいたします。
全国的な降誕会の様子が今のようになったのはいつ頃からか、その明確な記録はありませんが、生誕地カビラ国のルンビニが当時一面の花園であったとか、甘茶は産湯を表すだとか、その時に天からの恵みとして甘露の雨が降ったとか、他にも様々な伝説や史実が元となって、「花御堂・誕生仏・甘茶」という取り合わせになっているのでしょう。
その場所は現ネパール南部、時代は紀元前5世紀頃へ遡ります。
4月8日、サキャ族という王族のご子息として生を受け、直ぐに7歩あるいて「天上天下唯我独尊」と、天地を指差し誕生偈を宣します。
この言葉は文面そのままに「自分が世の中で一番特別な存在だから敬いなさい」という独善的な意味では捉えません。
「この迷える世界に安穏を与えるのは他でもないただ一人、私である」と、のちの世で大悟し衆生を導かれる、あたかもその宣言のようなお言葉なのです。
ちなみにこの頃の日本はまだ弥生時代の初め頃ですが、お釈迦様の母国では既に都市国家が成立し、文化や経済の発展した社会基板が形成されていました。
以降、その恵まれた生い立ちにより不自由のない生活をされ、青年となったお釈迦様ですが、人の暮らしや生き死にの姿から色々な「思い」が頭をもたげてきます。
四門出遊(しもんしゅつゆう)という説話で形容されているその頃の様子ですが、住まいの城郭のあちこちから外へ出るが、その何れにも「苦しむ人の姿・老病死」を垣間見る、という。
これはその時のお釈迦様の「行き場のない苛まれる心の在りよう」が表現されています。
どんな生き方をしようとも、どうして人は苦しみから逃れられないのか、何処にも救いは無いのか、目の当たりにした現実に、深く悩みます。
そして最後に北門から出ますと、凜とした修行僧の姿が目に入ります。
この時、お釈迦様はその後の人生を決意します。
「諸欲にあらず、精勤をこそ、我が心は喜ぶ」
求道者として発心し、ついに王族の身分を捨て、29歳でご出家なされるのです。
・成道会(じょうどうえ)12月8日
ご出家したお釈迦様は南方インド地域へ下りつつ、托鉢をしながら生活をします。
諸国を転々と遊行されるそのなかで、優れた2人の法師に出会われ、側に就き教えを請うことに。
いただくお導きはいずれも、確かに無二なものでした。しかし満たされず腹落ちしません。
それでも諦めずにひたすら答えを求め続けるうちにいつしか、身心を削るかの如く過酷な修行の日々へと入って行かれるのです。
それから約6年、精進潔斎を極めた末にお釈迦様は、骨と皮だけの痛々しいお姿となってしまうのですが、それでも未だ疑問が消えない、本当の救いを見つけられないままでいます。
壮絶な日々の甲斐もなく打ちひしがれるお釈迦様は、もしかしたらこのような苦行だけでは駄目なのではないかと思い至ります。
しかしそれまでの無理が祟って、もう身体は限界に達しています。
すると、そんなボロボロのお姿が、ある日通りかかったスジャータという町娘の目にとまります。
そして彼女から一杯の乳粥を施していただくのです。
いただいた食事に気概を取り戻したお釈迦様は、マガダ国を流れる尼連禅河(にれんぜんが)のほとり、ブッダガヤにある菩提樹のもとで、改めて瞑想に入られます。
度々訪れる悪魔の囁き、愚かな誘惑(これらは煩悩を表現している)を断ちながらもひたすらに坐すること7日目、ついにお釈迦様は「悟り」に到達いたします。
35歳で降魔成道(ごうまじょうどう)し、ここに覚者すなわち仏陀と成られるのです。
この様子、一説には「夜明けの空に輝く金星(明けの明星)を眺望するとともに悟りが開いた」のように、象徴的な情景で称されております。
お釈迦様が開悟され覚者になった日の12月8日、各地のお寺様ではこの正当日を記念して、開悟直前のお姿を描いた出山図(しゅっさんず)を掲げ、そのご威徳を讃える「成道会」を行います。
また、曹洞宗など禅宗寺院の中には、臘八摂心会(ろうはつせっしんえ・臘月12月8日までの約1週間、お釈迦様の開悟記念日に向けて、僧侶や一般者が集まって泊まり込みで坐禅を行う)を併せて組み入れ、毎年本格的な成道会をご修行されているところ(坐禅道場を併設するような大寺院)もございます。
悟りを得たお釈迦様ですが、長い時間をかけて求め続け、苦悩の霧を抜けた先に到達したそれは、あまりにも難解なものであるが故に、当初、衆生への説法を躊躇います。
ですが、梵天様(バラモン教:現ヒンドゥー教最高神・護法善神)の度重なる勧めを請け、後に迷いながらも伝法を決意します。
それならば先ずは以前ご縁があった2人の法師にと思い立つのですが、残念ながらその時既に彼らは他界しておりました。
ならば昔の修行仲間達に届けようと、マガダ国を離れ、彼らの居る隣接都市ヴァーラーナシーの鹿野園(ろくやおん)という場所へ向かい、説法を試みます。
これがお釈迦様による、仏陀となられて初めて教義を「他者へ伝える」場となったのです。
ここから「仏教」が世に広まり始めます。
お釈迦様の内に秘めた教えがついに表現され、輪のように巡り渡る、そのきっかけとなったこの記念すべき最初の説法を「初転法輪・しょてんほうりん」と申します。
伝法に挑んだお釈迦様はその後、さらに教えを諸国に広めるため、遠くさすらいの旅へ出ることになります。
・涅槃会(ねはんえ)2月15日
初転法輪から実に45年もの長きにわたり、布教の旅は続きました。
行く先々では、竹林精舎や祇園精舎といった僧堂、いわゆる宿舎や土地の寄進も受けながら、教義は広く着実に伝わって行きます。
その中で、阿難尊者や目連尊者に代表される十大弟子をはじめとした門下生が、各地にたくさん輩出されて行きました。
晩年には、霊鷲山という山の頂に於いて、それらお弟子様達を集めた大説法を幾度となく行います。
教えの下に集まった善き友が、それぞれ縁を繋ぎ、さらに善き友を呼ぶ。法は伝播して広がりました。
このようにお釈迦様の教化伝道の人生は、年月を重ねる毎に円熟を極めるのですが、師もやはり人間であります。
ただでさえ高齢なところ、無理をおして旅を進めてきたことから、老衰いよいよ甚だしく、ご自身の余命がもう幾ばくもないことを、次第に認識するようにもなるのです。
ある日、クシナガラの都は沙羅双樹のもと、頭北面西にしてゆったりと臥します。
集まった弟子達へ、お釈迦様は法を説き続け、臨終する師を前にして、弟子達はただ黙します。
涅槃図はこの時を、そこに人々のみならず、動物や虫に至るまであらゆる生き物が集まり、この世を後にするお釈迦様の側へ寄り添う様子として表現しています。
万象を明らめ悟りの境地へ。無常安穏の寂静涅槃は死とともに。
涅槃会では、お釈迦様の入滅(死)を追慕しながらも、覚者による無上の教えを拝受するため、毎年2月15日に法堂(本堂)東側の室中に涅槃図を掲げ香を焚き、遺教経(ゆいきょうぎょう)の読誦による供養一座を厳修いたします。
お釈迦様の最後の説法です。
「世は皆無常なり。会うものは必ず離れる事あり。憂悩を抱くこと勿れ。世相是の如し。當に勤め精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て諸の痴闇を滅すべし。」
以下に意訳いたします。
「辛いことですが、この世に生を受けたものは後に必ず亡くなり、残念ですが、出会ったもの同士はいつか別れることが決まっています。しかし私の教えは未来永劫、いつまでもこの世に残り、生き続けます。別れの度に悲しんでばかりいないで、正しい教えを胸に納め、悩み苦しみに心惑わされぬよう、真っ直ぐに生きて行きなさい。」
世寿80歳、お釈迦様はその生涯を閉じられました。
「仏陀」としての生き様は、現世に繋がる無数の弟子と、ご入滅以降も連綿と続く衆生済度(しゅじょうさいど)の法輪として、世界中に脈々と受け継がれています。
・参考文献
増谷文雄(1969).『仏陀 その生涯と思想』. 角川書店